久しぶりすぎる投稿です。りーぬ、生きてます。
パンデミックが明けてからも、色んなことがあった。色んなことがあり過ぎて、何を書いたら自分が満足するのか、そもそも何かを書きたいのかさえ分からなくなったので、しばらく書くのを止めていた。
でも、なんとなく、また書きたくなったので、こうして今、文章を綴ってみる。
何となくでいいのかも。小さくてもいいのかも。
大きいものにはうんざりなんだよ。
(↑ちょっと言ってみたかった。笑)
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昨日、東京国立近代美術館で開催中の、中平卓馬の『火ー氾濫』展に行ってきた。一人の写真家の人生を、その人の作品を通して時系列で辿る展示だった。60年代末から始まる世相を切り取ったような写真群は、テーマを変えながら氏の没する2015年まで続く。60年代って、私は生まれていないけれども、中平卓馬の作品が掲載されていた当時の雑誌そのものも展示されていたので、当時の記事も読めて、まるでタイムトリップしているような気分になった。
初期の写真からは、高度経済成長を迎え激変していく日本の社会や大きな力への不信感を特に強く感じた。それは、中平個人の抱いたものというよりは、当時国が急速に豊かになっていく状況の中で国民が感じていた全体的な不安感を炙り出しているように思えた。みんなが怖くて見ないようにしているものを、あえて映し取ろうとする行為だったのではないだろうか。
世の中のものには、プラスの面とマイナスの面が同時に存在する。自分が「良い」と思うものも、裏から見ると「悪い」ものに見えたり(実際そういう面があったり)する。石ころをお日様の元に置けば、必ず影が出来るように。
だから、人はプラスに見える物もマイナスに見える物も、どちらも受け入れなくてはならない。少なくとも、目を逸らしてはいけない。それは最後に、必ず自分に返ってくるのだから。
中平卓馬の写真からは、現実に存在している正の部分も負の部分も(どちらが正か負か分からないままに)見つめようとする、責任感に似た覚悟を感じた。
ーそして突然、中原に襲いかかる、記憶障害という病気。それから亡くなるまで、中原は日常生活を撮影し続けるのだが、その何気ない写真が「すごい」と思わざるを得ない迫力なのだ。
病気前の中平の写真はどこか匿名性を帯びているように見える。撮っているのが誰かはどうでも良いような、誰もが「この光景は見たことがある」と既視感を覚えるようなイメージを喚起させる写真。しかし病気後に撮った写真からは、生きている中平自身の息吹のようなものを感じる。
私は展示会場を二度回った。
何かすごく、もやもやする。これは一体、何なんだろう。
このもやもやを、どうしても理解したかった。
普段あまり写真展に興味がないのだが、この展示を見て改めて、写真とは何だろうと考えた。写真とは、ジャーナリズムであり、批判精神であり、興味の視点であり、、、いや違う。
私の感じたもやもやを何とか言葉にしてみると、
写真は、撮られたイメージを通して、撮影者の思想を鏡のように体現する物質である。
そう、写真は、思想。そして、物質なのだ。展示されている写真を見て引っかかっていた事のひとつは、その作品自体の持つ物質感であった。デジカメで写真がデータで終わりがちな現代だけど、現像されてプリントされた物質であるという事が写真家にとっては(写真にとっては)特に重要なのではないか、と強く感じた。
昔はデジカメがなかったので、撮った本人がイメージを確認するためにはまず現像しなくてはならなかったのだが、錬金術のようなその過程に、また現像液のレシピや現像する紙といった材料にも、当然、写真家独自の好みやこだわりがあったはずである。対象を選びシャッターを押し、好みの色に現像して、選んだ紙にプリントするまでが写真家の仕事なのだとすれば、写真の本質とは、撮影者の指紋を持ったイメージが実体を伴ってこの世に現れる事なのではないだろうか。
つまり、あの展示されていた写真の一枚一枚には、中平卓馬のDNAが組み込まれていたのかもしれない、という事だ。だからこそあれほど私は感じる物が多かったのではないだろうか。。
ーーーと、そんなことを延々考えました。
一言で言うと、面白かったです!
中平卓馬展、今週末までです。興味があったら行ってみてください。
帰りにはお堀の桜も見られるしね🎵
中平卓馬展
久々のりーぬでした〜