伝説の天才ピアニスト、グレン・グールドに絶賛ハマり中。
始まりは、ギリシャに住む友人が送ってくれたYou Tube のリンク。グールドの弾くブラームスのIntermezzo Op.117-1。それまでもグールドの名前は知っていたが、実際の録音を聞いたことがなかったのだ。
衝撃だった…。
なんて美しいピアノなんだろうーそして、どこか「ただならぬ」と言った印象の音色。ピアノの一音一音が、まるで生きているみたいに聴こえる。すごくビジュアルな音、と言ったらいいんだろうか。ピアノから奏でられた音が単独であったり連なったりするのを、まるで見るように聴いているような感じ。そして何といってもこれが、感情を揺さぶられる音色なのだ。もしも「情感」がカタチを与えられたら、やっぱりこんなふうに存在するのかもしれないと思ってしまうような、そんなピアノ。
つまりその一曲で私は、完全にグールドに「落ちた」のだった。
それ以来、制作をするときには、グールドの演奏を聴く。ブラームスに始まり、モーツァルト、今はバッハの録音を、例によって、これでもか、というほど聴いている。しかし何度聴いても飽きることなく、体の深いところから、いい!(涙)と思うこの感じ…すごすぎる。
グールドを聴きながら、遠い昔のことを思い出す。小さい頃、お稽古ごとのひとつとして、近所のピアノ教室に通っていた。練習が余りにつまらなくて、ピアノの才能は全くないな…と諦めつつ、いやいや通っていたものだ。あの頃ピアノといえば、聴くのは先生のお手本ばかり、先生の自宅の一室である教室には、メトロノームの退屈な音がしけたおせんべいのように響いていて、私はソファで自分の順番を待ちながら、私の前にレッスンを受けている同年代の女の子の、こちらも私に劣らずのやはりたどたどしい演奏を聞きながら、ピアノってそんなものだと思っていた。レッスンは決まり事のように「行くもの」だったから、当時はどうして自分がピアノを弾いているのかなんて考えたこともなかったし、クラシック音楽に対しては、音楽の授業でたまに聴く、冷蔵庫に入った石碑みたいなものという印象くらいしかなかった。場所は茨城のど田舎で、音楽が豊富という環境でもなかったから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが。
しかしもしも、と今の私は思う。もしも小さかった私が、どこかで、何かの折りに偶然、グールドのピアノを聴いていたら…?もしもこの自由奔放で生き生きとした音色に、今の私のように、心を奪われていたとしたら…?もしかしたら、何かが今と違っていたのではないか、と。グールドを聴いたからと言って、まさかピアニストになったわけではないと思うけれど、少なくとも幼かった私は、ピアノを弾くことがもっと好きになっていたかもしれない。
弾くよりもまず、聴くんだったなあと、今更ながら思うのだ。素晴らしいものを、押し付けるわけではなく、出来るだけたくさん体験させる機会を与えること、そして願わくばその人の中にひとつでも多くの「好き」を増やすこと、それこそが真の教育と言えるのかもしれない。
しかし、人生の素晴らしいところは、人はいつでも知ることができるということだ。いつでも自分から新しいことを知って、好きになることができる。そう、「今」知れば、それでいいのだ。
グールドのピアノを知って、私の中にまたひとつ、新しい「好き」が増えたのだ。そしてそれは、また他の「好き」につながっていく。そんな幸せな勉強を、ずっとしていきたいなあと思う。
▽いつもありがとう!
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