「ロブスターが食べたい。」
友人Aがある日突如として言い放ったこの一言、多大なるインパクトを持っていた。
ロブスター?何を突然。。。つか、んな高いもん無理に決まってるダロ!と瞬時に頭に浮かんだものの、ついに口から出なかったのは、「ロブスター」という言葉に、人を夢に誘う麻薬的効果のあるせいだろうと思う。方程式にすると、
「ロブスター」
夢の中では、実際に「高価である」 ことは問題にはならない。その悦楽的体験だけを享受すれば良い。ロブスターを食べたことのない(少なくとも記憶にない)私は、代わりに蟹を思い浮かべ、そのミソをレモン汁としょうゆで味付けし、ご飯に乗っけて口へと運んでいる場面を想像し、唾が湧いてくるのを禁じ得なくなりながら、「いいねえ」と呟き、友人Aを振り向いた。しかし。Aは意外にも現実的な顔をしていた。どうしても食べるとその顔はすがすがしく宣言していた。なんでも地下鉄で隣に座った人が読んでいた雑誌に、ロブスターがでかでかと特集されていたそうだ。単純ここに極まれり。しかし、あの真っ赤な容姿は、魚で培われた我々日本人の血を殊更に刺激するに違いない。私はAを責めることはできなかった。
NYでも、魚介類は人気の食材である。中でもロブスターは贅沢品ながら、割と近くにあるメイン州のものが有名なので、新鮮なものを安く提供してくれる場所がマンハッタン内にあるのだ。それは、チェルシーマーケット。食材屋やレストランが軒を連ねる食のショッピングモールである。ここのシーフードショップでは、ロブスターを一匹から注文することができるという噂は、かねがね小耳に挟んでいた。実際チェルシーマーケットに行くと、観光客らしき人々が、どでかいロブスターを前に嬉々としている姿を見ることができる。廊下に出ている簡素なテーブルで、人様にジロジロ見られながらの食事なので、恥代としてチップはかからない。道ばたで運良く1000ドルでも拾わない限り、もしも行くならここしかない。私とAは真面目に話し合い、決行の約束をしたのである。
それから時の経つこと2週間。ようやく機会を得た我々は、果たして念願のシーフードショップに到達した。扉を開けると、そこは懐かしい日本の魚屋の匂いがした。ここでは何と、寿司のネタも売っている。氷のベッドの上にずらりと並ぶロブスターのセクションには、夕方6時前だというのに既に人が列を作っていた。看板を見ると、「$12/lb」(うろ覚えだが、そのくらい)。1lbがだいたい0.5キロなので、かなりのお手頃価格なのが分かる。しかし、一体ロブスター様は一匹どのくらいの体重であらせられるのか、経験の浅い私には検討もつかない。ここは腹を括っていくしかない。ドキドキして列に並んでいると、ついに我々の番が来た。店の兄ちゃんが「スチームドロブスター?」と訊いてくる。そう、注文を受けてから、生のロブスターをここの高温蒸し器で蒸し上げてくれるのだ。二人用のが欲しいと告げる。氷の上にいた小降りのロブスターと目が合った気がした。しかし兄ちゃんはその横にいた大きめの奴をひょいと捕まえて、計りの上に置いた。35ドル。高い!先ほど目が合った小降りの奴を計ってもらう。21ドル。やっ ぱこいつだ!「二人には小さすぎる」という兄ちゃんを笑顔でかわすと、我々のロブスターは高温釜へ入って行った。5分ほどで出来上がるので、その間に会計をすませてこい、と未払いのレシートを渡される。これだけ?意外とあっさりで、拍子抜け。しかしやることはまだあった。
ロブスターのお供に、外せないものがあるのだ。それは、同じ店のスープバーにある「ロブスタービスク」。ロブスターの殻でダシを取り、白ワインと生クリームで煮込んだと思われるこのスープ、隠れた絶品なのである。これは絶対に一緒に食べると決めていた。はやる気持ちを抑えて、カップにスープを取る。奮発して大きいサイズ!それらの会計をするともう5分、蒸し器のカウンターに行くと、我らがロブスターは真っ赤に蒸し上がって湯気を立てていた。レモンと、容器に入った溶かしバターが添えられている。こ、これは、待ちきれない!沸き立つ我々。もう一刻の猶予もない。
外に出て、目を血走らせながら空いている席を探す。お盆の上には、ほかほかのロブスター。こういう時は、探し物はまず絶対に見つからないものだ。案の定、二手に分かれて探したが、席を確保するのに7分は要したと思われる。静かになってゆくロブスター様。待っておくんなせえ!!今、御前に!!
しかし、ここで我々は気がついた。まだ肝心なものが欠けているではないか。それは、米である。何といっても我々は誇り高き日本人。海鮮があるならご飯がなくては、どうしても納得がいかないのである。しかしうまく出来たもので、ここチェルシーマーケットには、タイ料理屋があるのだ。タイ料理そっちのけで、白いご飯のみを買いに走る友人A。その間、まるでお預けをくらったワンコのように、背筋を伸ばしてロブスターと向き合う私。廊下を行き交う人々が、驚きの表情をちらちらこちらに投げる。A、早くしてくれ。それにしても、蒸し上がったロブスターは、何と美しいのだろう。この赤!どうしたらこんなに美しい赤が作為なく存在するのか、不思議でたまらない。それに、この長い、真っ赤なひげ。指の先で動かすと、精巧に作られた機械のように複雑な動きをする、その規則的すぎるほどの構造。余りの美しさに、ひげだけ持って帰ろうか、本気で悩む。体全体のデザインの完璧さ、そのまったく無駄のないシンプルな機能美に、ため息がこぼれる。(ここでアップルコンピューターを思い出したのは、さすがスティーブジョブス、といったところか。)
Aが必死になって駈けて戻って来た。息を切らしている。しかしよく見ると、手には何も持っていない。「メシは!?」「ここのタイ料理、白飯が3ドルだった!!」「ええ!普通1.5ドルでしょ!」「今、1ドルしか持ってない。。。」
3ドルくらい持っとけよ!と2ドルを渡すと、再びAはすっ飛んで行った。。。怒っても仕方がないので、「平常心」と唱えながらロブスターのひげで遊ぶことにする。しかし、待てど暮らせど、Aは帰って来ないのである。何をしているんだ!ハラハラしているうちに、傍らの溶かしバターが、徐々に「溶かしてないバター」へ変容し始めている。ロブスター様は、狂喜の面持ちをすっかり落ち着かせ、まさに「平常」な顔をし始めている。A〜〜〜!!!
その後しばらく経ってようやく帰って来たAは、不可解なほどに満足気な顔で、「ついでにトイレに行ってきた」とのたまった。ここで私は怒り心頭である。実は、私も先ほどからトイレに行きたかったのである。しかし、目の前には冷めて行くロブスター様が。どうしたら良いのだ!だが、どうも私も用を足しに行かねば、「ロブスター体験」に不公平が生じる気がしてきた。ずるすぎる。これでは私一人、半分しか楽しめそうにない。熟慮の末、ここは思い切って行くことにした。Aは待っていると約束した。フライングしたら罰金である。かけ足でトイレへと急ぐ。こういう時のお約束通り、トイレは長蛇の列。しかも、なかなか進まない。おい〜!!だが、もはや引き返せない。私は無の心境で大人しく待った。じりじりと時が流れる。これは、待ち遠しいゆえに長く感じるのだろうか?それとも本当に長く待っているのだろうか?時計を持たない私はそのどちらなのかさっぱり分からなかったが、ようやく用を足して席へ戻ると、Aが目を吊り上げて「おそ過ぎだろう」と言ったから、気のせいではなかったわけだ。ま、ま、いいじゃん。取りあえず、食おうぜ。
席について、いざ!取りかかる我々。まずはロブスタービスクを、ご飯で食べる。ん、ま〜〜〜!!!これは絶対うまいと思ってたけど、予想を遥かに超えてうまい。しばし沈黙。そして、ついに、ロブスター様である。Aに殻を割ってもらう。まず、手から行く。レモンをかけ、固まっているバターの表面を破って身の先を浸し、いきます、パクッ。
。。。。。。
口に広がる潮の香り。バターの芳香。レモンの酸味。。。そしてご飯。
。。。。。。。。。。。極楽の味がする。。。。。。。。。。。。
無言で食べ続ける我々。。。なぜこんなに満足感があるのか。。。これは我々が日本人だからか?!魚介類、特に甲殻類を食す時に発動する、遺伝子に組み込まれた満足感なのか??答えのない問いを問いながら、我々は、まさに海の幸を思う存分むさぼったのだった。もはや、他の誰も目に入らない(Aは「通行人が見ている」とたまに言っていた)。もちろんミソも食べたが、これは蟹と違って、少し独特の匂いがした。我々が、箸とプラスチックのフォークと主に手で、ロブスターをしゃぶり尽くすまで、30分とかからなかったはずだが、ゆうに一時間はその夢幻の境地で戯れた気がしたのだった。
戦いの終わった盆を前にして、我々の感想は、「これがあつあつだったらばどんなにかうまかったであろう」という、既に次の戦いを予感させる勇ましいものであった。次はまずトイレに行き、ご飯を買い、席を取り、それからロブスター。同じ過ちを二度と繰り返してはいけない。もはや次回の準備は万全である。持って帰ろうと思っていたロブスターのひげは、無惨にも粉々に折れてしまっていた。
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